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根北線についての随想

 

■根北線と沿線の人口

 

 北海道は人口密度が低い。そのため、鉄道の沿線人口が極端に少ない場合が多い。営業線にあってさえ、石勝線のように無人の山峡を走る路線もある。それが廃止線や予定線であればなおさらのことだ。

 

 それにしても、根北線は凄い。特に根室標津側はほぼ無人地帯とみなせるほど人口密度が低い。斜里側にはある程度の人口があるとはいえ、鉄道路線を維持できるほどのレベルではない。旧根北線に相当するバス路線は1日2往復の運行しかなく、その2往復も日曜祝日には運休となる。当然、鉄道の営業など成り立つ訳がない。

 さらにいえば。

 石勝線の場合、沿線人口は少ないものの、札幌と帯広・釧路を結ぶ幹線として特急列車が運行されている。そのため、利用客数は多い。

 例えば、美幸線の場合、石勝線以上に沿線人口が少ない。しかし、終点に枝幸町があり、枝幸から旭川・札幌への人の流れもあるため、1列車を仕立てるだけの利用客数を見込むことはできる。だから、美幸線の想定ダイヤは作れないこともない。

 そして、根北線の場合。沿線人口の少なさは前に述べた通りだ。いうまでもなく、線内での利用客数はほとんど見込めない。では、根室標津-斜里間を直通する利用客はどうか。あるいはもう少し視野を広げ、北見・網走-中標津・根室間の利用客はあるものなのか。

 全くない、とは言い切れない。しかし、限りなくゼロに近いことは確かだ。参考までにいえば、根室標津-斜里間において、わたしは3人の旅行者に出会った。ここでの旅行者とは、自動車・バイク・自転車等を自ら運転できない(あるいはしない)人を指す。即ち、旅行者は公共交通機関以外を利用することができない。いわゆる交通弱者である。

 3人のうち、1人は観光バスの若者である。そして、残りの2人が利用した交通機関は、実にタクシーであった。わたしは根北峠の手前で2台のタクシーとすれ違っている。どう考えても、斜里から根室標津までの客を乗せていたとしか思えない。斜里-根室標津間は約60km。おそらく、タクシーの料金は1万円を軽く越えるであろう。

 それだけの出費を押してまで2人の旅行者がいたという事実。この2人、多いとみなすべきか、それとも少ないと判断するべきか。

 多い、というべきではない。肝心なことを忘れてはならない。根室標津-斜里間の路線バスは既に廃止されたのである。この間の旅行者の数など、高が知れている。

 結論として、根北線には想定ダイヤの設定のしようがない。これほど惨憺たる状況下にある予定線は、根北線の他には名羽線くらいしか思いつかない。

 そういう意味において、根北線は美幸線や白糠線をも凌ぐ巨大な存在である。

 

 

 

 

■根北線の意義

 

 では、根北線の全通が先行していれば、状況は変わっただろうか。沿線の開発が進み、人口も増え、鉄道を維持できるだけの利用者が見込めるようになっただろうか。

 

 答えは否である。これは明確に断言できる。

 根北線沿線の主たる産業は酪農と畑作である。そして、第1次産業の近代化とは少人数による大規模経営への移行とほぼ同義である。当然、人口の集積は起こりえない。

 また、今日では、酪農や畑作を営む者はまず例外なく自前の交通機関(つまり自動車)を保有している。酪農業や農業に携わる人々は、本質的に公共交通機関を必要としないのである。交通強者、と表現するのが適当かもしれない。

 他の第1次産業も考慮してみよう。まず漁業。これは路線の起終点に港があるとはいえ、根北線を潤わせる材料になるとは考えられない。次いで、林業。資源は豊富にあるから、これが根北線に一時の活気を導いた可能性はある。だが、いずれ衰微したであろうことは他地方の状況を見れば明白だ。では、鉱業。これは資源の存在自体が疑わしい。あったとしても、林業と同じ経過を辿ったことだろう。

 

 

 

■遅かりしか根北線

 

 こんなことを書き連ねていると、まるで根北線には存在意義がないかのようである。

 

 ほんとうに、そうか?

 これもまた、答えは明確に否である。ただし、これは北海道という非常に特異な歴史を経てきた地域での例外的な事情と理解するべきであろう。

 日本人が北海道に本格的に進出したのは明治維新後のことである。北海道の開発は苦難の連続であった。なにしろ、道がない。まず道を拓くことが開発の第一歩であった。

 しかし、道をつけてもそれで全てが解決する訳ではない。当時、道路を走る交通機関といえば、せいぜい馬車程度のものしかなかった。馬車の輸送力は低く、まとまった輸送量が見込まれる場合、明らかに力不足である。

 明治という時代には、鉄道が持つ大量性・高速性を代替しえる交通機関は皆無であった。逆にいえば、明治年間には、鉄道以外の交通機関を選択する余地はなかった。北海道では道路以前に鉄道が通じた街も決して少なくない。

 根北線は、鉄道が唯一絶対の交通機関であるという明治時代の発想に基づいて計画され、建設された。だから、根北線は早期に完成されるべきであった。もし、根北線が明治期に開業していたとすれば、いずれ自動車に駆逐され廃止に追い込まれるのは免れえなかったにせよ、鉄道として活躍できた時代もあったのではないか。

 根北線の悲劇は開通時期があまりにも遅かったことである。斜里-越川間ですら、開通したのは昭和32年。モータリゼーションはこの直後爆発的に進展する。ただでさえ沿線は人口疎なる土地である。あっという間に経営が行き詰まったことはいうまでもない。

 せめてあと30年早く開業していれば、鉄道としての役目を果たせた時期もあったはずである。それだけが、惜しい。

 結局、根北線は昭和45年に廃止された。享年13歳。国鉄としては史上稀なる短命路線である。

 

 

■むすび

 

 のちに調べたところ、越川のアーチ橋は竹筋コンクリート製だそうだ。これでようやく謎が解けた。鉄道ジャーナルNo.112(1976年6月号)に「ローカル線建設は続く--日本鉄道建設公団の組織と仕事」(種村直樹著)という記事がある。この記事のうち、根北線に関する記述を一部引用する。

 

「越川の先には、資材不足のため竹の骨組の陸橋が作られ、いまも、そのまま残っているが、一度も列車が通ったことがないので、地元では‘渡らずの橋’と呼んでいるとか」

 当時小学5年生だったわたしは「竹の骨組」の意味を理解できなかった。ひょっとして竹で組み立てられた橋かと思ったが、いくらなんでも竹では列車を支えることはできまいと思い直したりもした。それ以上は追求のしようがなく、わからないまま放っていた事柄だったが、今ようやく正答に辿り着いた訳である。

 竹筋コンクリートという概念は常識を逸脱している。コンクリートと竹の付着力はどれほどのものか、圧縮・引張・剪断に対する挙動はどのようなものなのか、興味はつきない。もっとも、越川のアーチ橋は上路式アーチ橋(アーチ頂部より上に線路面がある構造)であり、アーチの曲率を考えると桁に相当する部分が短い。そのため、引張力が生じる部材はほとんどないものと思われる。コンクリートはもともと圧縮に強い材料である。補強材が竹であっても十分に強度を発揮したであろう。

 問題は耐久性である。現在老朽化が著しいのは手入れをしてこなかったためであろうが、十分な手入れをした場合はどうだったか。また、列車が走って一定の負荷がかかるようになった場合、老朽化はどのように進行するものなのか。

 建設の経緯とともに、探求心をそそる話ではある。

 

 

 

 北海道は面積が広大であり、かつ、人口密度が低い地域である。そのため、一旦道路が整備されてしまえば自動車交通が最も適する地域であるといえる。

 

 根北線は北海道の歴史そのものである。そして、交通機関の特性を学ぶうえでの生きた教材でもある。

 だからという訳ではないが、わたしにとって根北線は愛着ある存在である。